〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法  大岡實建築研究所
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金沢仏舎利塔(石川県金沢市)
石川県金沢市若松町の奥卯辰山に立つ金沢仏舎利塔奉讃会による金沢仏舎利塔の由来を記した案内板によると「この仏舎利塔は人類の永遠の平和と幸福の為に大聖釈尊の真身舎利を奉安する宝塔であり昭和二十九年四月インド国、故ネール首相より日本山妙法寺山主藤井日達猊下を通じて、仏教都金沢に奉迎申しあげたものであります。尚、建立にあたっては一切を一般の浄財により賄ったもので県下各界の篤志家のご協力によるものであります。」とある。昭和49年9月28日に落慶している。

右手上に白い仏舎利塔が見える

案内板

大岡實が仏舎利塔の原始形式における全体の形を確実に知りうるとして、仏舎利塔のデザインのモチーフにしたストゥーパの四種の資料(末尾の参考資料を参照のこと)からすると、このデザインはいずれのものにもはてはまらないようである。また、このタイプの作品としてはこれ以前に設計された臼杵仏舎利塔(大分県)がある。

臼杵仏舎利塔

(大岡實が日本山妙法寺の藤井日達上人に宛てた書簡の原稿の中で、仙酔峡(仏舎利塔)での上人との接見の際に「世にも貴重なる多宝山出土の小仏舎利塔を拝領いたしまして、感激の極みで御座います。これ偏に仏縁の賜と考えまして、どこかに彼の塔の形を建てたらばと考えたところ、早速臼杵の地形が丁度彼の塔を建てるのに、適当に考えられますので、臼杵に建立したらばと考えて居りますが如何で御座いませうか。」と述べていることから、この形は「多宝山出土の小仏舎利塔」をモチーフにしたものではないかと考えられる。)

臼杵仏舎利塔は四方に仏龕(ぶつがん)があるが、金沢仏舎利塔では仏龕は正面だけとなっている。

背面から見上げる

欄楯(らんじゅん)が巡る

仏舎利塔から眺めるとこんな風景

設計図

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年月 西歴 工事名 所在地 工事期間 助手 構造設計 施工 構造種別
昭和48.02 1973 金沢 仏舎利塔 石川県金沢市 昭和48.02〜49.09昭和48.02〜49.09 松浦弘二 治山杜 治山杜 RC造
(意匠設計共)
さて、ここに当時の写真が残っている。
参考資料

大岡實がインド仏舎利塔の基本形式が上部の細部までわかる遺構の調査にインド及びスリランカ(セイロン)を旅行した結果、仏舎利塔の原始形式における全体の形を確実に知りうるストゥーパの資料は以下の四種であったという。

@ カルーラの石窟内の小ストゥーパ(インド)
A スワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)
B アマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)
C ルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)
@ カルーラの石窟内の小ストゥーパ(インド)

新版仏教考古学講座/雄山閣より

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でカルーラの石窟内の小ストゥーパについて次のように述べている。
「このカルーラのものは蓮の葉を形どった傘が残っていて、当初の形を知り得る。これは現地に傘の残る唯一のものであるが、傘の遺品はサンチやサルナートなどによく残っていて、カルーラのものと同形式であったことが考えられ、これが一つの基準形式であったことを知り得る。しかし、これらは石窟内のもので極めて小さく簡単化されていて、このままの形を拡大して屋外に建てたのでは形にならない。」
A スワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔落慶記念出版より

新版仏教考古学講座/雄山閣より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でスワット渓谷出土の小ストゥーパについて次のように述べている。
「紀元前二世紀頃と言われるが、一石から彫り出されたもので(相輪は別石であろうが、石質が同じで工作も同時であることは確実である)、後世手の加わった部分は全然ない。インドの古塔で完全に全形を立体的に知り得る唯一の例である。ただし、この塔はガンダーラ地方に入ってかなり変化発達し、基壇が幾重にも重なり、傘蓋も上下に重なっている。なお、この塔よりさらに基壇が発達し、層塔形になった小さな焼物の塔も出土している。」
 B アマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)

新版仏教考古学講座/雄山閣より 

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔
落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でアマラバティのストゥーパについて次のように述べている。
「マドラスの近くのアマラバティにあった塔で、紀元前一世紀に創建、紀元後二世紀に大増築された直径五〇メートルにおよぶものであったが、惜しくも十九世紀に完全に破壊されてしまった。しかし幸いなことに、この塔の姿を薄肉彫にした石の板が、塔の装飾として用いられていて、それがかなりの数残っている。しかもその薄肉彫の石板は細部を綿密に彫刻してあるので、全体の復元はさほど困難でない。ただこの塔は装飾が非常に多く、かつ四面にアーヤカ柱と称する五本の石柱が立つ特殊な形式であるが、これと全く同じ形式の塔を彫刻した薄肉彫の石板が、アマラバティから余り遠くない、ナガルジュナコンダからも多数出土しているので、この形式がこの地方に一般的であったことを知りうる。」
C ルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)

仏舎利塔の由来とその変遷/田子の浦仏舎利塔落慶記念出版より

大岡實は新版仏教考古学講座/雄山閣の中でルアンウェリーの小ストゥーパについて次のように述べている。
「この塔は紀元二〜三世紀のものと言われるが、これも一石から彫り出されていて(相輪は別石であろうが、同時の制作であることは明らかである)、確実に原形を保存しているものであり、しかも造形的に見て、全体のバランス、塔身(覆鉢)の曲線など美しい。」


なお、Aのスワット渓谷出土の小ストゥーパ(インド)をモデルとした作品には王舎城(おうしゃじょう)(インドのラージギル)他、Bのアマラバティのストゥーパのレリーフ(インド)をモデルとした作品には奥多摩仏舎利塔(別名帝都仏舎利塔)、Cのルアンウェリーの小ストゥーパ(スリランカ/セイロン)をモデルとした作品には仙酔峡(熊本)、清澄(千葉)、美浜(福井)の仏舎利塔他がある。
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