〜社寺建築☆美の追求〜 大岡實の設計手法
 大岡實建築研究所
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□ 助手 田島美穂(たじまよしお)について
田島美穂は、1910年富山県東砺波郡(現砺波市)に生まれ地元の学校を卒業後、京都に出て京都工学校建築学科へ進学した。1928年に卒業し、東京松井組(現松井建設)に入社して社寺建築の道へ進むことになった。
   

 京都工学校卒業証書

     
     
    所属は設計部門の松井角平建築事務所で、有名社寺建築物や松井組の設計施工物件の図面トレースなどをして、社寺建築設計者としての基本を学んでいる。
1934年に棟梁松井角平より、規矩術など社寺建築の技法習得を認める修了証書を授与されている。
     
   

 六代目松井角平恒茂より授与された証書

     
     
    田島美穂氏の図面リスト@ 松井組時代(昭和3年〜昭和9年) 参照

その後松井建設を退社し京都へ戻り、京都府学務課社寺課に勤務する。

田島美穂氏の図面リストA 京都府学務部社寺課時代(昭和10年〜昭和13年) 参照

そして京都府学務課社寺課を退職後、東京合資会社社寺工務所に入社し、本格的な社寺建築設計に従事する。
文化財建築物の調製図面の作成や新築神社の設計が主な仕事となった。
社寺工務所での設計の特徴としては、新築物の構造が木造だけではなく鉄筋コンクリート造を採用していることである。昭和10年代において社寺建築物を鉄筋コンクリートで建立することはまだ珍しく、限られた設計技術者のみがなし得たことと思われる。
田島は、伝統的木造社寺については松井組から、鉄筋コンクリートについては京都工学校に学んで、総合的技術を持つ設計者として活躍していくこととなる。

この時代の日本は、中国大陸への進出を拡大していく時期であった。1941年田島は社寺工務所を退社し中国大陸へ渡り、北支天津神社造営奉賛会技師に着任した。設計者の立場から神社側(発注者サイド)の立場としての活動となった。

田島美穂氏の図面リストB 東京合資会社社寺工務所−北支天津神社造営奉賛会時代(昭和13年〜昭和17年) 参照

偶然であろうか、施工者は清水組(現清水建設株式会社)で、北支天津営業所の杉本正一所長の部下であった松浦弘二が天津神社造営工事の担当者であった。ふたりがそこで出会ったのではと想像できるが、残念ながら確たる資料はない。
そして造営の終了後も家族と北支天津市に留まり、自らの田島建築事務所を主宰していた。

田島美穂氏の図面リストC 田島建築事務所時代(昭和18年〜昭和20年) 参照

しかし戦況は悪化し、ついに終戦を迎える。苦労の末、家族を連れ日本に引き揚げることとなった。故郷の富山県に戻るが、食糧難もあり農業に従事した。

しばらくすると戦後の復興が始まったが、時代は卓越した技術を持つ田島を放ってはいなかった。
1948年東京松井建設株式会社に再入社後、東京浅草寺の復興事務局技師となった。お寺側の担当者となった訳だが、浅草寺は戦災により本堂が焼失しており、その本堂の再建が東京復興のシンボルとなるべく待ち望まれていた。
設計者に決まったのは大岡實だった。田島と大岡はこのようにして出会うこととなった。
大岡は本堂再建に際し、木造ではなく鉄筋コンクリート造とすることを提案し、お寺や檀家からは強い反対を受けた。しかし耐火性、耐震性の確保こそ重要と粘り強く説得して、ついには同意を得るのである。
大岡の主張が通ったのは、鉄筋コンクリート造の社寺建築に精通していた田島がお寺サイドにいたことが、大きく影響していると思わずにはいられない。

浅草寺本堂の設計は順調に進んだが、お寺の土地問題などから着工が遅れることになった。
その間、大岡は友人の紹介で双亜建築株式会社に一時身をおいていた。双亜建築は、清水組北支天津営業所所長だった杉本正一氏が戦後創設した会社だった。
そしてかつての部下松浦弘二が部長として勤めていた。大岡と松浦の出会いの会社であった。
驚くことに1950年に田島がその双亜建築に入社している。いきさつは不明だが大岡・田島・松浦の3人が双亜建築で顔を揃えたのである。

田島は入社するとすぐに、光厳寺(富山市)本堂新築設計(鉄筋コンクリート造)、清水寺(長野市松代町)本堂新築設計(鉄筋コンクリート造)、井草八幡宮(杉並区)文華殿新築設計(鉄筋コンクリート造)に従事する。
そして1951年、いよいよ浅草寺本堂の工事が始まり、監理業務にも就くこととなった。たくさんの仕事をこなし、自らの能力をフル稼働させて充実の日々を送っていた。

しかし残念なことに病魔が田島を襲うことになる。
肺結核のため、浅草寺病院に入院した。浅草寺の仕事は続けることが出来なくなり、故郷の富山県に戻った。
療養を続けながら、富山市に建設中だった光厳寺本堂の監理業務に就いていたが1952年8月、わずか42年の生涯を閉じた。
浅草寺本堂、光厳寺本堂の竣工を見ることは出来なかった。
     
    田島美穂氏の図面リストD 東京浅草寺復興事務局−双亞建築(株)時代(昭和23年〜昭和27年) 参照
     
   

 2.監理(第一期工事)監督技師故田島美穂の名が見える/昭和本堂再建誌(昭和33年浅草寺発刊)より

     
     
   

 工事中の光厳寺本堂(富山県富山市所在)/大岡資料より

     
     
   

 右端が田島美穂/某工事現場にて

     
     
   
追記; 平成26年、当ホームページをご覧になった田島美穂氏のご家族から連絡を頂きお会いすることが
出来ました。その時に行ったインタビューと拝見した資料及び図面等から本文を作成しました。
参考; 田島美穂氏関連図面リスト
田島美穂氏自筆の履歴書(昭和26年6月20日作成のもの)
助手田島美穂(追記)
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